コミックマスター8号

富野×HJ対談


発行・ホビージャパン(1992年5月1日)


2005/12/1 (2012/8/8訂正)

永久保存版 
巨匠(マスター)インサイド・インタビュー
第1回

「嘘をつかない事・男であり続ける事」
映画監督 富野由悠季氏


 記念すべき第1回のゲストは、10年程前に朝日新聞『若者の広場』で「子供の尊敬する人No.1」に輝いた映画監督、富野由悠季氏だ。
去る2月21日、サンライズ近くの喫茶店で時間を忘れる程の奥の深いお話。「トミノ哲学」に触れ、その人柄に感動してしまった…。


 ※↑は画像です


富野監督にインタビュー

 喫茶店の奥の席で上品にコーヒーを飲む紳士…。我々コミックマスター・スタッフ (以下HJ)を案内してくれたサンライズI氏の御紹介でインタビューは始まった。予定時間1時間。しかし、実際には1時間半経っても、話は尽きなかった。その情熱に敬意を表しつつ、インタビューを再現したい。

HJ お忙しい中、ありがとうございます。よろしくお願いします。

富野(以下T) こちらこそ。

HJ まず、現在進行中のお仕事は、どのようなものでしょうか?

 サンライズさんに聞いて下さい(笑)。個人的には、長い間おつきあいしてきた『オーラバトラー戦記』を終わらせるということで、1〜2ヵ月かかりきりになりますが…。それ以上は先程の言い方しかできないのですから……ノッていないと言っておきます。

HJ やはり作品づくりにノリは響くものなんでしょうか?

 作品というものは、ほとんど結果論で語られるべきものでしょうから、本当は終わってから話すべきでしょうけれど…そうですね。無理してやっていると「ああ、やっぱりこんなもんだ」ということが、ね。いいかえれば、企画当事者が嬉しがれるかどうかという事です。今、ノッていない、と言ったのも“まだ見えない”からで、感覚的にはイケると思っています。この2〜3ヵ月、自分なりにとてもウマくいっているので、その気分を作品創りに反映できたらいいなと思っています。

HJ なるほど。さて、話がいきなり大きくなって恐縮ですが、富野さんは今後のアニメ界はどんな方向に向うべきだと思われますか?

 現場の人間は“べきだ″という方向づけは持てません。必ず、“状況”があって作品を作らせて戴いている立場ですから。極端に言えば、どういう状況でも、それに上乗せできる“自分の持ち物″があるか、だけが問題なんです。今の業界は、そういう視点で見た場合、悲観的でしかなくって、可能性が見えにくい、と思います。ですから、作品的にどんなジャンルが成長するのか予測など全くできません。アニメ業界全体の力量からみで、可能性があまり見えないのが残念です。と同時に僕自身スタッフの一員として少しでも付加価値を乗せなくちゃいけないんだけど、この年齢になるとなかなか見つけられなくて困っています。

HJ では富野作品の今後の展開としてはメディアを選ぶ方向で?

 いえいえ、こちらからは選べません。目のいいプロデューサーとか、誰かの目にとまらない限りこちらからメディアを選ぶなんて絶対にありえません。その意味では日本の体制というのは、こう…良く言えば整理されていて、個人でうって出る、というチャンスがない。実はその事がアニメの将来を悲観的に見せる大きな要因としてつながってくるのです。例えば、この1年、OVA、TVともアニメの本数だけは多い。けれどもその中で、我々や、この本の読者の方々が好きになれる作品がいくつあったのか?数ではなく、比率で考えると決して多くはない。なぜか? それはアニメーションをメディアと考えた時に、それを自在に扱ってみせた作品というのはそんなに作れないだろうし、それを発表してくれる場というのも極度に少ない、ということなんです。
 また全体的にみると“指向の単一化”が人きい。東京なら東京、という地域的な指向も色々なことを花開かせない要因の一つで、復古調のアニメがふんぞり返る結果になっている。つまりソフトが増えて現場的には豊かになったように見えているんだけれども、B級C級のモノばかり増えるんだったら、本当はみんなで2〜3つでいいからA級のものを作る、といった体制作りをしなければいけないんでしょうね。コミックにも同じことが言える。やはり最終的には個々のスタッフの意識の問題でもう少し用心して作品を提供すべきだと思う、と同時に、これは自分自身の教訓にしています。

HJ う−ん、今のお話は私達もメディアを扱う側として、心にとめておかねばならないポイントだと思います。さて、今度はちょっと方向を変えまして、富野さんご自身のことについて触れていこうと思います。以前、新聞の意識調査で小学生の“尊敬する人”のトップになられましたよね。どのように思われました?

 だいぶ昔の事だったような気がしますが(笑)。何にせよ、僕にとっては「ありがたいな」ということです。僕は自分自身が言わなくちゃいけない事をロボットアニメの中で表現してきたつもりでした。それが現場のスタッフには理解されていない。ましてやプロデューサーとかスポンサーなどの“大人”達はもっと理解していない。そういう意味で、現場の僕をとりまく環境は、ひどく冷淡なんです。いわゆる営業論以外では。僕個人の主義主張や人生観も含めて、聞こうとしてくれた人はほとんどいなかったですね。

HJ 一人もですか?

 ええ、一人もいません。例え、ロボットものでもその中に自分の主義主張みたいなものの一つや二つは入れたい。また絶対的な嘘だけはつきたくない。そう思って作品を作ってきたわけです。

嘘をつかない事=子供達への誠意


そんな思いを少しもわかってはくれない“大人達”に対して分ってくれる子供達がいるってことは僕にとって大きな後押しなんですね。自分の名が認知されて嬉しいとかじゃなくてもっと現実的な…。こういう環境の中で、作品を通してしか見ていない子供達がそれをわかってくれている、という“嬉しさ”なんです。本当に僕にとってはビームライフル以上の武器(笑)です。
 それと“こわさ”ですね。少なくとも僕は「子供相手だ」とか「ロボットものだから」という気分を持たずにやってきました。むしろロボットものを利用して自分の主義主張を塗り込めていきたいし、銭もうけもしたい。そういったこちらの積極的な気分を素直に受け止めてくれる。これが嬉しいとともに怖いところで「死ぬまで嘘はつけないな」と(笑)。苛酷ですが、とても気持ちのいいものです。そういう子供達がいてくれるからこそ、やらせてくれるものならば、死ぬまで頑張りたいなと思っています。

HJ 富野さんにとって子供達は、大きな後押しであるばかりではなく、富野さん御自身の鏡でもあるわけですね。今のコメントの中で、“ロボットもの”という言葉を、頻繁に使っていらっしやいましたが、現在そういうモノが減ってきて、キャラクターアニメ、例えば名作ものの類が増えてきてますよね。そういったジャンルであれば主義主張の表現等も楽になると思うんですが、そういったジャンルは、おやりにならないんですか?

 僕はロボットものを作ることに慣れ過ぎちゃった人間ですので、ロボットをはずしてそういうものを作れるかと言われても自信がないと言うしかありません。実績がないからです。これは冷酷な現実ですね。ですから実績を作りたいし、チャンスも欲しい。ただ、生れて初めてシリーズを仕切らせてもらった『海のトリトン』の時みたいな気分に戻れるかと言われたら、うかつに 「はい」とは言えません。

HJ 実は私、トリトンが大好きだったんですよ。

 あ、ありがとうございます。

HJ 富野作品、例えばガンダムでもそのあたり、つまり戦争を通して出てくる“人間性”に回帰していく、といった点で一般的にも評価されている訳ですが、私はそれだけじゃなく、生きていくために必要なこと、目の前にあることをいかにクリアしていくか、という事を常に訴えてきていたと思うんですが、いかがでしょうか?

 全く、その通りです(笑い)。というか、僕はロボットものをロボットものとしてだけで作っているのではないんです。ロボットが動くのが好きで観てくれている人が多くはありません。ある作品の観客が例えば5万人いたら、そういう人達は20%位しかいないと思うんです。百人なら80〜90%はメカ好き、ってことはあるでしょう。でも千人なら60%、一万人なら40%もいないんじゃないでしょうか。つまり、沢山の人が観てくれる事は、普通の人が増えるってことです。例えば百万人を動員したアニメがあったとして、その周辺アイテムが百万個売れる訳ではないんです。それでわかっちゃうんですよね。だから僕はロボットものを、あくまでメディアの媒体としてしか使わなかったんです。単純に利用したんです。
 TVアニメは20数分間をいただく公共的なものですし、当然スポンサーがついている訳ですからロボットが活躍する、これは企画上の必須条件になってくる。でも重要なのは“ロボットもの”を作る事ではなく、“作品”を作る事であり、それは同時に作者が自分を見せる、という事でしかない訳です。「俺はこれなんだ」「俺はこう思っているんだ」「こういう気分でロボットを動かしているんだ」ってね。それが例えば「実は俺、ロボットものが嫌いでね」でもかまわない(笑)。嫌いだけれど、こういう状況や設定でならロボットが動いてもいいかもしれない、という色々な可能性を投げ入れていくんです。すると受け手側は色んなふうに見てくれる。
 メカ好きがロボットの戦闘ものとしてみる一方で、そうでない人が、「あれ?面白いな」と言った時、キャラクター、或いは美形(笑)、物語等のロボットもの以外の部分を気にいってくれている。普通の人が何十本もあるTVの中で、ふっと引っかかって見ちゃう。その時、ロボットものを作る、という意識は極度に必要ではない、と思うんです。それに僕は、ロボットものってあまり好きじゃない(笑)。

HJ えっ?

 例えばこの十何年、ガンダムならガンダムをやっていて、好きになりようがないんです。ヘドが出る位、嫌ですもの。じゃ、なんでこんなに長く続いたかというと、ガンダムを通して今回は何を話そうか、を考えていたからです。“ロボットが好き”で作っていたら、他の作品を引き合いにだしちゃ可哀悲だけれど…マクロスまでが限界だな、という気がします。だから今、マクロスUが出来るってことは僕にとって嬉しい事なんです。なぜならUは、リライトでは済まないから、作り手側がマクロスにプラスする何かを発見した事になります。
 メカが好きだというだけで作ってしまうと2クールもあれば全部やれちゃう。そういう意味で、ロボットものは嫌いです。まして僕はアトムで始まっている人間ですから、ロボットって空気みたいなもんだという感覚があります。あれでフィルムの作り方を覚えた人間ですから「アトムが好き」だけで作品が出来ないのは、2年もやりゃあわかります。ロボットものは作ってるんです。今もね。
 ただロボットものを作る事を前提にするのはやめたいんです。営業として必須条件という意味では続けていきますよ。けれども、じゃ、次どうしようかっていう時にロボットものを作ろうとした場合、何をしたら違えるか? それはロボットのデザインを変えたからって決して違えるものではないんです。何を見せられるか、なんです。その時点では、ロボットのことは頭にありません。その作業なしには、作品は作れませんし、それがあるから、飽きずに作れるんです。

HJ なるほど。勉強になります。

 実は、ホビージャパンは毎月見させてもらっているんですが、見る毎に思うことがあるんです。それは、「モデラーの腕はあがった。もうこれ以上あがる必要はない。けれど、どうしてモデラーの仕事がアートにならないんだろう」

モデラーよ 大志を抱け!!


個々の技術論から言ったらもうロダンを越えてるなんてもんじゃないんですよね。そろそろアーティストが出てきてもいいんだけどね。
もし欲を持って本気で「俺はアーティストになる」って思うモデラーが出てきたら、その人はインターナショナルなクリエイターになれるでしょうね。そして、そのベースであり、必殺アイテムであるホビージャパンのセリフは「だからってお前は、もうモデラーじゃない、なんて口がさけても言うなよ」ってことです。アーティストになろうという人がなぜ出てこないのか?
 それは「ものを創るっていうのは技術論じゃないんだよね」 ていう結論になるんです。そろそろいう人が現れてもいい筈ですし、実際そういう気配を持った方が2〜3出てきてますね。こういう気持ちはどんどん持って欲しい。そして世界へ…。例えば十年後に世界的に有名になった彫刻家が「いや実は俺の出身はね…ホビージャパンでね」って言うのは素敵な話でしょ?

HJ そうですね、夢、ですよね。

 僕自身のことですが、ガンダムにしてもそうなんですけれど、ロボットものの監督になろうとは思っていませんでしたし、今でも思っていません。意識として、映画監督になりたがっているんです。未だに。そういう点で“ガンダムの富野”のタイトルはかなり邪魔しています。決して不要だというのではありません。しかし“ガンダムの富野”だけで死にたくはない。
 モデラーの例のように、普通に「映画監督の富野」とか「ビジュアルなクリエイターで富野ってのがいたよね」と言われるくらいの仕事をしてみたい。だから、ロボットものを好きにならないように、ものすごく努力しています。これは逆説でもなんでもなくて、そう思ってませんとね。だって簡単に言ったら僕はロボットものの演出なんかは、自分で言うのもなんだけど、上手だと思います。けれどアートにしていく時には、まさにその技術が邪魔になる瞬間というのがあるんですよ。あるレベルまでいった時にね。
 で、今その部分をどう乗り越えるか? ロボットもの、というジャンルを越えて「あの映画良かったよ」というところまで、作品を作っていきたい。ひとつの分野でもプロにとどまらずにその先を目指す。そういった姿勢をみせるというのはいいことなんじゃないかなと思うんです。だから頑張ろうって事なんだけど、その頑張り方も今言ったようなものの見方をしていかないとマニアで終わっちゃったりするんです。ある場所では先生と言われても、外に出たら一般大衆ABCで終わっちゃう。それじゃ情けない。そういう切磋琢磨は、あっていいと思います。

HJ 深いですが良くわかります。では、いよいよ核心に触れさせて頂きます。“今”富野先生が何を考えていらっしゃるのか、お聞きしたいんです。あらゆる“今”、富野さんの内側にあり続ける“富野イズム”みたいなものを…。

 そういう質問を受けたのは初めてです。もっと具体的なものばかりだったから…。そこまで平たく言われちゃうと…。

今、初めて明かす富野イズム


そうですね、僕がいつも考えていること、今までやってきた生活や人生も含めてこだわってきたこと、がひとつあって、それは 「ちゃんと男になりたかった。男をやっていたかった」と。
 つまり変な卑屈感や屈折感を持たないで、ちゃんとした“人”でありたかったという事なんです。今、ロボットものしかやらせてもらえない、じゃなくて、これを全部使い込んで「自分はここまでやったんだけどダメかなあ」なんて人に聞いた時に「いやあ富野さん。これだったらいいんじゃない」って言ってもらえるような男とか人でありたい。それには今の企画に満足しないことでしょう。チャンスをもらえない人だっているんです。
 自分の作品には、そんなふうに取り組んでいるんです。つまり見栄っ張りなんですね。「きれいに見せたい」「うん、と言ってもらいたい」と、そういう事しか考えてません。で、この部分では見栄っ張りでいいと思ってるんですね。

HJ そういう環境の中にありながら、ロボットものを通じて色んな方法で自分の本音を吐露しまくっていった方だからこそ、ピュアな姿勢が子供達に通じて尊敬されたんでしょうね。

 ええ、きっとね。だからこそみっともないんですよね(笑)。だって……。

HJ さっきの“見栄”っていう言葉でビビッときたのが、ハンフリー・ボガードなんですよ(笑)。

 (笑)。

HJ そういった雰囲気が子供達に跳ね返ったんでしょうね。

 ええ、こわいです。自分なりの好みやロジックが完成してしまった高校生以上の人と違って14才以下位の人達っていうのは何でも受け入れますからね。だから絶対に嘘はつけない。

HJ 例えば、どんな事が“嘘”だと思われますか?

T う−ん、難しいなあ。誤解を恐れずに言うと“マニア”つまり、ひどく狭視的に自分のポジションだけにこだわるような人ですね。マニアの善悪だけで回りの色々なものを仕切るというのは一番ついちゃいけない嘘ですね。ものの見方っていうのは沢山あるわけですから。本当のようにひとつの物語、ひとつの世界として作品を作るのは非常に危険だと思います。ギリシャ神話もある意味でマニアなんですが、ギリシャ人の総意で全部一緒に抱え込んでいる。ひとりの視点や倫理観で判断していないから嘘じゃない。ひとつの視点で判断しちやうと、ヒットラーのようになる。
 だから僕は、それを間違いというより嘘だと思うんです。だからでしょうね、僕の作るものというのは、先にこういう状況があってね、というシチュエーション・ドラマになる。ある者が良いのか悪いのか、言い切れない。ギレン・ザビの言ってること、かなり正しくて俺好きだぜと思っちゃう(笑)。『海のトリトン』もカメラをトリトンの側においたからああなったというだけでね。善悪がハッキリしなくて不愉快だという人もいるでしょうが、それで腹を立てたと言ってきた人はいない。つまり、人間というのは、物事をかなりフラットに受け入れることが出来るということで、だったらその能力は大事にしてやりたいと思うんです。それでなくても自分の作品には“富野カラー”とでも言うべき主義主張が出てしまうわけですから、自分の主義であるよりも、ここではこうであった、ぐらいにとどめておく用心深さを持ちたい。
 ジオンや連邦をニュートラルな立場で見てくれていた事を確かめられたりすると嬉しいんです。人間て、もっと色んな事を受け入れられる筈だということです。一言で言っちゃうと「お前ら、いつまでもロボットものなんか見てるなよって(笑)。それが確かに伝わっているんですよね。この間非常にいい経験させてもらいまして「ガンダム見ちゃったから、今天文やってるんですよ」 って人に会って。

HJ へえーっ!

 とても嬉しい事ですよ。

HJ そうですね。という事は富野さんにとっての嘘というのは何か実際にあった事柄が一方向からのみこれが正しいと決めつけた時点で嘘になる、という事ですね。

 そうでしょう。それが一番簡潔に言い表していますね(笑)。ありがとうございます(笑)。
HJ いえいえ(笑)。富野さんの作品は、オールラウンドに自分で考え得る全ての事柄を考えた上で、なおかつ男であり人間である富野さん御自身のフィルターを通して創り出してくる、というスタイルをとってらっしゃる訳ですね。

 それは理想です。自分を律するだけでも危ういのに作品世界まではとても出来ません。でもやりたい(笑)し、それを憧れとして設定しておくのは悪いことじゃないですよね。勉強家じゃないけど。

HJ 謙遜でしょう(笑)。

 いや全然。5年も英語やってるけど全然進歩なし。日本語の本10ページ読むのも大騒ぎ。そんな自分がこんなに仕事しちゃって困ったもんだ(笑)。

HJ 書く側にとって一番必要なものって何でしょう?

 例えばフランケンシュタインを書いた人は人造人間ていう概念も含めて最初から造り出さなきゃならなかった訳です。そういう意味では僕は概にあるロボットという構築物の上に自分のものを付加した。それでもお金を出してくれる人に何が出来るかと言えば、最低限“嘘をつかないこと”になる訳です。最大だけど最小条件なんですよ。愛なら愛という概念に最大だけど最小条件をセットアップしておけばある程度のものは書ける…かも知れない。

HJ う〜ん、哲学的な話だ。最大のものが最小限のものとリンクしている、という考え方自体が富野さんをここまで引っ張ってきたんでしょうね。インサイド・インタビューの企画にぴったりです。

 こういうふうに自分自身整理できた、という点では僕にも有意義でした。先程ちらっとアートの話をしましたが、ロボットもの、アニメもアートになる可能性があるかも知れない。その時……。

HJ 我々メディア側の捉え方にも既製の固定概念があるような気がしてならない。それをとり払わなきゃならない、という提案をいただいてると思うんです。誌面で訴えると同時に作り手にも示唆してあげられるように。

 その通りです。浮世絵もビニ本レベルで始まって百年経ったらああなっちゃった。ホビージャパンやアニメ出身のアーティストが出て来たら本当に素敵だと思う。
 技術はもういいよ、創れっ! て言いたいですね!





2011/2/11
■御大、再びアートを語る

TOMINOSUKI / 富野愛好病 富野由悠季のオーラちから
富野由悠季のオーラちから Vol.1 「フィギュア王102号(p96-97) 2006年8月30日発行」
富野由悠季のオーラちから Vol.2 「フィギュア王103号(p126-127) 2006年9月30日発行」

■荒地は耕すべき■: 550 miles to the Future
 インタビュワーは廣田氏。み、耳が痛い…。



2012/8/8

 以下の誤記の訂正を行いました。謹んでお詫び申し上げます。

子供の尊する人No.1 → 子供の尊敬する人No.1
よろしくおいします → よろしくお願いします
小学の“尊する人”のトップ → 小学生の“尊敬する人”のトップ
子供達に通じて尊された → 子供達に通じて尊敬された




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