他人のガンダム観を許容できないメカニズム(弁明)

「GON! 1999年6月号」
赤田りんたろう

※文章の内容は前ページの物と同一ですが、
ナローバンドの方のためにテキスト版をおこしました。

●特別寄稿・赤田りんたろう(にわかガンダム史家・ガンダム斜眼)


 ガンダム本で重要なのは本の制作者のガンダム観。長い間多くのファンに幅広く親しまれたガンダムほどの作品となると、ファンの中に多種多様なガンダム観、すなわち「俺ガンダム」が芽生える。一人一人が持つバラバラなガンダム観「俺ガンダム」に対し、ガンダム情報を流通させようとする側はどのようにしてパランスをとるべきなのか。このことに無神経なガンダム本は実は単なる「俺ガンダム押しつけ本」でしかない。

 「アニメック」のガンダム辞典や、伝説のガンダム本「ガンダムセンチュリー」の頃は、ガンダムのフィルムに現れない裏設定を勝手に想像して作る、という遊びがまだ一般的でなかった。そして後に、先駆けであるそれらが基となり、いわゆる「公式設定」と呼ばれるものに変わった。つまりこれらがきっかけとなってファン個々のガンダム観の広がりと可能性があることを示したのだ。しかし他方ではガンダムの裏設定の大枠と宇宙世紀の世界観のイメージが一方的に決めつけられることになった。その顕著な例がミリタリー指向であり、ギャンやザクレロ、Gファイター、Gアーマーをどう扱えばいいのか、という問題である。あれら一連のスパロボ風のメカ群は、一部の人達のガンダム観、「ミリタリー色の強いSF」というガンダム観を守るために、なし崩し的に「なかったこと」にされようとしてはいないだろうか?杞憂であればいいのだが。

 この手の「俺ガンダム」発露は大きな声で早く言ったモン勝ちである。しかし本当にそれが全面的に通用したのは、実は「ガンダムセンチュリー」の時までである。その後、オリジナルTVアニメーション作品であるファーストガンダムと地続きであるとされて作られたガンダムもので、万人のガンダム観を満足させたものは一つとしてない。MSVはおろかZでさえも、だ。

 これは当然だろう。ガンダムという作品が広く受け入れられたのは、ファンそれぞれの中に「俺ガンダム」を作るスキマと奥行きがあったからである。それを大きな声で一気に狭めたのが「アニメック」のガンダム解説であり、「ガンダムセンチュリー」なのだ。スキマが気になっていたファンは感心し、そうだったのか、と最初は与えられたものに満足した。だが、一方で自分のガンダム観とそぐわなかったり食い違ったりした部分もあったはずだ。事実、当時すでにそれを全面的に拒否したファンもいたのだ。よって以後、続編などでガンダムのスキマが狭められるたびにファンは自分の「俺ガンダム」との違いに失望し、そこから入ってきた新しいファンのガンダム観とのギャップは大きくなっていったのだ。

 自分の「俺ガンダム」は「富野由悠季が作ったガンダムが全て」という人もいる。つまりニュータイプ論とかを好みがちな人だ。しかしそれはどうだろう。機動戦士ガンダムというTVアニメは富野由悠季と対等にヤリあえる安彦良和がいて、他にも優秀なスタッフやキャストが参加し才能がぶつかりあい、様々な障害を乗り越えて誕生した作品だったのではないか。もちろん富野由悠季なしにはなかったであろうことは言うまでもない。しかし、富野由悠季と対等に意見をぶつけあう仲間がいなくなったエルガイム以降の富野作品はどうなのか。富野由悠季の作家性が暴走し、タイヘンな作品ばかりである。たがらファーストカンダムは希有なのてあり、特別なのだ。認めてないわけではないがZ以降のガンダムは富野の「俺ガンダム」のように思える。というのは私のガンダム観なのだが。

 20年にわたって分裂と増殖を繰り返し、細分化したガンダム観だが、ここに来てガンタム本の出版が相次ぐ。中にはこれまで世に出たガンダム情報を1本にまとめ、大統一ガンダム観を作り上げて「ガンダムセンチュリー」ばりに「俺ガンダム」を押しつけてくる本もあるようだが、勘違いしてはいけない。「ガンダムセンチュリー」はまだその遊ぴが新鮮だった頃の本であり、また良く出来ていた面白い本だったのである。

 だが諸君、これを否定するよりもまず、肯定しようではないか。21世紀を迎える今、人の革新に一歩でも近づくためにも、「俺ガンダム」を語るだけでなく他者の「俺ガンダム」すなわち「君ガンダム」にも耳を傾け、理解しあうことが必要なのだ。だから「ガンダム斜眼」のことも許してください。

2004/12/20

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