「富野作品=宗教」への反論


アニメック22号より

(1982年2月1日発行)



2011/2/22 (2012/8/8訂正)
このページは、

ガンダムSF論争?古臭い議論だね - 【NTの】玖足手帖【修羅場】
『アニメック21号』 p30〜31
 宮武一貴 「何かが違うSFとSFアニメ――センス・オブ・ワンダーについて――」


への当時の反論です。

P154〜P155

撫佐郁夫

「メッセージとしてのTVアニメ」
〜あるいは迷える、もとSF少年達へ向けて



 アニメック21号に「何かが違う、SFとSFアニメ」というタイトルの宮武一貴氏の文章が掲載された。この文章中での不用意な発音と、その結論に対して多くの事実誤認を認めたので、ここにその報告を述べさせていただく。
特に宮武氏の「ガンダム」「イデオン」についての誤認識が甚しいので、これを中心に書いてゆくつもりである。


 まず、前号のこの記事の大筋をたどってみる。宮武氏は文章の前半部で、SF的アニメの頂点として「ガンダム」を挙げる。そして「SFマインド」「センス・オブ・ワンダー」「価値の相対化」といった言葉(所謂SF用語)をまき散らし、最後に、「トリトン」「ガンダム」「イデオン」という一連の作品の中で富野氏は「宗教」を提示したと述べている。故に富野作品は全てSFたりえないというわけだ。そして 「ガンダム」で代表されるSF的アニメ全ても、SFたり得ない事を暗示させている。
 宮武氏のこの文章は穴だらけである。しかし、ここでは段落分析してその論理の矛盾を全て指摘する紙数がないので、部分についてだけ述べる事とする。

 この記事の最後の1/5で、宮武氏は富野氏を「ドラマの頂点で夢を語る」人、「絶対的な夢」を持ち、「超絶的」な力を語る人、そして「創作の中に、相対化する事の出来ない貴重な物の存在を、クライマックスで描写しようとする」人であると規定した。そして、富野氏のそういった 「作業」を「宗教」であると断定し、絶対にSFとは相入れるものではないと主張したのだ。これから後、宮武氏の犯した一番重大な誤り、「富野作品=宗教アニメ」という決めつけについて述べる。

 このような考えは、「ガンデム」「イデオン」に対しての宮武氏の誤認に基いている。「ガンダム」について、彼は、「ニュータイプとは、富野善幸氏にとって、相対化する事のできない、絶対的な夢だったようだ」と述べているが、これは第41話「光る宇宙」の中で、アムロの心の中にイメージ化された『ユートピア』(空間に浮かんだ草原と花畑。そこに戯れる二人)と、ララァの科白「人は、変わってゆくのね、アムロ」を視聴しての判断であろう。しかし、これらは、アムロがララァを殺してしまった時点での、二人の見た「夢」であり、現実のニュータイプが人の業に縛られたものである、という悲観的認識の中での、「見果てぬ夢」である。アムロもララァも、それを知っていたはずだ。アムロとララァの、二度と再現される事の無い一瞬の触れ合い。それはアムロ自らの、「取り返しのつかない」行動の結果である。その触れ合いの中で、二人は 「理想郷」を「見果てぬ夢」を見ていた。その一瞬後には、アムロは悲惨な現実世界へと戻らなければならない。そこには、ララァを誤って自らの手にかけてしまった自分、という現実が待ちかまえている。

 ニュータイプとして誤ちを犯し、殺し合いをする、人だ。超人ではない。このニュータイプのどこが「絶対的な夢」たり得よう。自身のそういった業を、そして限界を、オールドタイプ」よりは、深く認識できる、というだけのことだ。シャア・アズナブルはそのようなペシミスティックな認識を持った上で、なお 「人はよりよく、生きなければならない」「少しずつでも、人は変わってゆかなければならない」との決意を得たのだ。「人がそんなに便利になれるわけではない」のだけれど、それでも、彼は目指さずにはいられなかったのだ。
 「イデオン」についても宮武氏は、まるで「イデ」が「絶対神」であるかのように考えている。物語は絶対的に強大な力「イデ」の発現によって終止符を打たれ、終局は、人はイデ=神の前には無力であり、神に帰依する他はない。というのが結論だ―――と、宮武氏は受け取ったらしい。「イデオン」は残念ながら打切りに近い状態で終了したが、放映された全39話だけでも、充分鑑賞に耐える作品である。
 第34話で、ジョータン・ベスはイデと夢の中で対話する。ベスの、何故人同志を戦わせるのか、何故やめさせないのか、という詰問に村し、イデと覚しき声は答える。「我々にそのような力はない。我々は我々という一つのものにすぎない。」

ベス 「共に苦しむ立場ならば、全力をつくして良き道を探すべきだ」
声 「そのような力!」
ベス 「全力で示せ、そうすれば意思の力は時間さえ越えられるはずだ。俺はきさまの一部じゃない!俺は俺だ。俺そのものだ。」

どこが一体 「絶対的なカ」だろうか。
イデは迷い、混乱しているように見える。あまつさえ、イデの持たない「力」の鍵を人が握っているという予感さえ感じさせる。そしてまた、恐らくは、ベスの「全力で示せ」という要求に対し、遅巻きながら不器用に答えたイデの行動が、第39話でのカララとドバとの対面だったのだろう。
 ならば、「イデオン」においても、富野氏は、「絶対的な夢を神に求めている」わけではない事は明らかだ。イデの持つ無限力は、人自身の姿を映し出す「鏡」にしか過ぎない。無限力の前では、人は本性を表わす。

「冗談じゃないわよ!これは私たちの船よ!イデなんかに!」とカーシャはイデに抗う(39話)。「
イデがそんなに偉いの!神様だってしちゃいけないことよ!」とシェリルは叫ぶ(38話)。
「イデだってほろびたくないから俺達を呼びよせたと思うな」とコスモはイデを考えようとする(36話)。
そして、ベスは 「俺はきさまの一部じゃない!俺は俺だ」とイデヘの同化を拒む(35話)。
これらの人々全ては、イデを神として、祀ろうとも、その力に帰依しようともしない。たとえどのような状況に陥ろうとも、自身に打てる手を打ち、状況に打ち勝ちたいと考える。
 「結局はそんな努力は無駄だったのだ、神におすがりなさい」と富野氏は説いたのだろうか。ソロシップのクルーに向かって、あるいは我々視聴者に向かって。
 「ほんとうに、そんな努力は無駄なのか?世界の圧倒的な力に対し、あきらめるしかないのか?ほんとうに?」
―――この間いかけは、「宗教」へのアンチ・テーゼでもある。富野氏は、自身と、我々に向かって、問いかけたのだ。

 以上に述べてきた事を意訳しまとめるなら、まず、(1)〈「ガンダム」は 「ニュータイプ」 という言葉をヒントに、人間の可能性について考察しようとした作品である事〉 (2)〈「イデオン」は「無限力・IDE」 という存在を鏡として、人の「よりよき生き方」とは何であるかを映し出そうと試みた作品である事〉 (3)〈よって明らかに、富野氏の作品は「宗教的作品」ではない事)という3つの事を述べてきたつもりである。宮武氏の誤認については、これで明瞭になると思う。

 しかし、「ガンデム」「イデオン」については、上に上げた三つの事の他にもうひとつ明示しておかなければならないことがある。それは(4)〈「ガンダム」「イデオン」といった作品は、結論が作品自体の中には存在せず、我々視聴者に向かって問いかけられた作品である〉という事だ。日本サンライズ第一スタジオ総監督、富野善幸氏の声が聞こえてきそうだ。「私達に出来るところまで、とにかくやりました。次はあなた方がやらなければならないのです」という声が。


 TVアニメ作品に「SF」というレッテルを貼りつけたり、はがしたり、という作業は実に意味のないものである(あまつさえ宮武氏は富野氏に「SFファン」というレッテルを強要したのだが、これは同じSFファンとして非常に恥ずかしい)。


〈註〉
…カルマ。人の今までに行なってきた善悪の所行、その連続によって導き出きれる運命。
帰依…信仰してわが身命をゆだねまかせること。たのみたよること。
祀る…神としてしずめあがめる。
アンチ・テーゼ…正反対の命題。反対の意味の論理文。


〈追記〉
 読者諸兄におもしろいヒントを提示しておこう。「何かが違う、SFとSFアニメ」という宮武氏の文章は、「ガンダム」「イデオン」を「百億の昼と千億の夜」や「神への長い道」「ゴルディアスの結び目」に変え、「富野氏」という言葉を「光瀬氏」や「小松氏」と書き替えても良いのだ。もちろんそうなるとタイトルは「何かが違う、SFとSF小説」となって、結論は「今までのSF的小説の中でSFと呼べるものはひとつたりと存在しない」という事になる。実際、宮武氏の論理を認めるならば、この書き替えた文章も正しくなるのを、御自分で御確認いただきたい。



―――宮武氏の文章の90パーセント以上は正しいと思う。しかし最後の「富野作品=宗教アニメ」 は違うのではないだろうか?
 ところが読者は宮武氏のネームバリューに負けてしまっている。アニメファンならなぜ反論しないのだ。本気でガンダムやイデオンを宗教アニメだと思っているのだろうか? 「だからイデオンは理解できなかったのですね、もっと宗教を勉強します…」なんて手紙を読むと落ち込みます。何通かは反論らしきものもきましたが、ここに掲載するにはいたりませんでした。撫佐氏の文章はアニメック向けではありません。SFファン特有の嫌らしさ(失礼)すら感じられる文章ですが、これ以上のアニメファンからの原稿が無い以上、あえて掲敷します。他の欄にも書いたように、あらゆる作品に対しての原稿を常時受け付けていますので、編集部までお送り下さい。(ま)

※文中の誤植を修正、傍点を太線にしています。

(082戯言) 実はてっきり、とあるライターのペンネームではないかと長年思っていたのですが、久しぶりに読み返してみると必要以上の火傷しそうな熱さで「燃え上がれファンダム!」・・・あぁ、何もかも熱かったあの頃。
 夢と希望に溢れるはずだったアニメ新世紀(ガンダムのその先)は訪れず、外はいまだ明けることない黒い冬。されど中坊は中年ガノタとなっても変わらずに、玩具で埋まった四畳半で独り「ジークジオン!」と今日も叫ぶ。なにやってんだ俺。

アニメ音楽の物語 湖川友謙VS安彦良和 完結篇
 熱さだけでなく、重い…これが30年という事なのか。



2012/8/8

 文中に誤記がありました。お詫びとともに訂正させて頂きます。

指摘する数が → 指摘する紙数が
ユートア → ユートピア
絶対的な → 絶対的な力
持たない「」の鍵を → 持たない「力」の鍵を
第39話で→ 第39話での



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